Q&A

10の質問 カスチョールの会って?

大阪外国語大学ロシア語科の卒業生から「カスチョール」についての問合せがありました。そのやり取りをまとめて、「カスチョール」の紹介に代えさせていただきます(主宰・田中泰子が2006年に回答しました)。

Q1 カスチョールの会はいつ・どんなきっかけで誕生したのですか?

1990年のはじめです。その頃、大阪外国語大学ロシア語科で3人の文学担当教師が(1)19世紀(2)20世紀(3)フォークロア・児童文学と担当部分を分けることになり、ロシア留学時代にS.マルシャークやK.チュコフスキー、E.ラチョフのところへ出入りしていた私が(3)分野を担当することになりました。ちょうどその頃、昔の教え子たちと一緒に、ソ連の児童文学についての研究会を発足させようとしていたこともあって、この会ができたのです。

まず、1年かけて、5年間(1985-1990)の日ソの児童書出版状況の比較調査をしました。その中で同人誌を出そうということになったのですが、私はいったん始めたら、社会的責任が生じて途中で止められないと思い迷い続けました。でも熱心な卒業生たちに「早く始めましょう!」とお尻を叩かれ、とうとう決断しました。創刊に参加したメンバーで今も残っているのは,私を除けば岩本ひとりになっていますが、あの時私を励まし、一緒にスタートを切った旧メンバーたちに心から感謝しています。

そういうわけで出版状況の調査結果を創刊号に発表しましたが、そこには問題含みの日本の児童書出版の特徴がはっきり現われていたので、今でも児童文化の諸問題を考える際に、この時の調査結果をよく引き合いに出します。ひと言で言うと、日本の児童書出版は「欧米もの」に非常に偏っているということです。日本の周囲のアジア諸国、ロシア(当時はソ連)などのものは全出版物の1パーセントにも満たなかったのです。イスラム圏のものはまったくなかったはずです。あれからずいぶん時間が経っていますが、こと児童文化に関しては、あまり変わっていないと思います、印刷の悪い手作りコピーしかありませんが、創刊号を多くの方々にぜひ読んでいただきたいと思っています。

Q2 なぜ「カスチョール」という名前をつけたのですか?

カスチョールはロシア語で「焚き火」のことです。日本でよく知られているS.マルシャークの「森は生きている」には、大晦日の晩、森の奥で継娘が冷え切った体を温める12


つき

の精の焚き火が出てきますよね。わたしたちの未来である子どもたちの精神的成長のために心を砕く人たちが皆ひとつところに集まり、協力し合って仕事をするという意味をこめて、私たちはS.マルシャークの焚き火を引き継ぎました。もちろん、林光の名曲「十二月の歌」も合わせてね。

また「2歳から5歳まで」で有名なK.チュコフスキーは、毎年7月に自分の庭近くにある森の空き地で焚き火を焚いて、「カスチョール(焚き火)の集い」を催していました。児童書の作家、詩人、画家、劇団のアーチスト、それに子どもたちとその親たちが皆そこに集まって、歌ったり、踊ったり、コンサートを楽しんだり…そして全員が<焚き火を飛び越えると幸せになる>というロシアの古い言い伝えに従って、焚き火を飛び越えるという夏の行事です。私も留学中何度か招かれて参加しました。ソ連崩壊後、このお祭りは一度なくなりましたが、2004年に森の中のチュコフスキー家を久しぶりに訪ねた時、その年からまた「カスチョール」行事を再開すると聞きました。私たちも「カスチョール」の紙面が作家、詩人、編集者、子どもたち、母親や父親が触れ合う場になることを望んでいます。

それにもうひとつ、すばらしい日本の童謡「たきび」(作詩・巽聖歌、作曲・渡辺茂)を引き継ぎたいと思っています。ランドセルを背負った子どもたちが、走ってきて手をかざす小さな、よい匂いのする焚き火。日本の子どもたちのための「カスチョール」は、キャンプファイヤーのような大きな火ではありません。小さいけれども、澄んだ空気の中でパチパチ気持ちのいい音を立てて燃える焚き火です。「チェーホフは、子どもに必要なのはきれいな空気だ、と考えていた」とS.ネボリシン氏が書いています(カスチョール22号)。子どもに接する仕事をしている私たちにも澄んだ空気がなくてはなりません。私たち12人のメンバーは、心が洗われるこのすばらしい歌を胸に、カスチョールの仕事をしていこうと思っています。

※童謡「たきび」が電波に乗ったのは昭和16年の太平洋戦争開戦の翌日だった。「落ち葉も貴重な資源、フロぐらいはたける。それに焚き火は敵の攻撃目標になる、と昭和24年まで歌われなかった(2010年12月18日付朝日新聞)」そうだ。

Q3 どんな仕事をしているのですか?

私たちは、ソ連時代を含めて、子どもたちの文化がロシアでどのように実っていったかを研究・紹介したいと思っています。日本の児童文化を考える際の資料としてです。ロシアの経験の中から最高のものを選び出し、日本の子どもたちのために利用したいと考えているのです。そのために、雑誌「カスチョール」を発行したり、展覧会を催したり、採算の考慮からプロがためらう作品を出版したり、人形劇団の公演を企画したり、講演会を開いたり、絵葉書、マトリョーシカなどのグッズを販売したりしていますが、すべては、最初に述べた目的のためです。

2007年の夏には、たったひとつ型紙が残っている「パナムカ」(ソ連時代の子ども用夏帽子)を売り出す予定です。これも、「ソ連時代の最高のものを…」という活動の一環ですが、私にとっては、今から40年も前にその型紙を作っておいてくれた母を記念する仕事でもあります。

Q4 ロシアの児童文化はどんな特徴をもっているのですか?

ひと言ではとても言えませんが、創刊号でも書いたように、私が留学した「雪解け時代(60年代)」のソ連でも、<子どもは国の未来なのだから、子どもには最高のものを…>という思想がまだ引き継がれていました。それは、ソ連の出発時点からあったもので、自分たちの未来である以上、しっかりした骨格を作り、健康な血や肉のもととなるような質のよい作品を与える必要があるというわけです。だから、出版する作品を選ぶという仕事がたいへん重要視されていました。選ばれた本の中には、毎年100万部以上刷られたものもありました。その結果、子どもたちだけでなく、お母さんも、おばあちゃんも、みんなが読んで知っている本がいくつも現われました。3世代、4世代が同じ本について話し合うことができるのはすばらしいことでしょう?

小さな子どものために選ばれた、非常に発行部数の多いものに、フォークロアがあります。民族の根っこをきちんと子どもたちに伝えようとしたのです。これは世界文学全集を編集したりする時にも同じこと。必ず、ズールーの昔話、ホッテントット(コイ族)の昔話などと、フォークロアからはじめます。

それからV.ビアンキやビアンキスクール、M.プリーシヴィンの国ロシアですから当然といえば当然ですが、木、草、花、森の動物、鳥など自然を扱ったポエジーや散文が多いのもひとつの特徴です。「ひびき」を大切にする民族ですから、家庭教育、公教育の両方で詩文学が重んじられ、自国の自然を声に出して歌うことが普通になっています。イラストも「子どもが人生の最初に出会う美しいものは絵本だから」と著名な画家に描かせる伝統がありました。これもすばらしいと思います。

ただ、創刊号でも書いたように、この選書委員会の委員に頭の堅いお役人などが入ると、この制度は非常に危険です。幸い、私たちが注目している当時のロシアでは、この仕事をM.ゴーリキーやマルシャーク、チュコフスキー、B.ジトコフ、E.シュワルツなど、これ以上は望めないと思える専門家たちがやっていたのです。すごい時代だったことがおわかりでしょう? ですから、あの見事な作品群が生まれたのです。こういうこと全てを私たちは、現代日本の問題との関係で、時間をかけて丁寧に見つめなおし、検討していきたいと思っています。

Q5 メンバーはどういう方たちですか?

メンバーに加える条件として、次の3つのことを決めています。(1)関西在住(2)ロシア語ができる(3)児童文学・児童文化に何らかのかかわりや関心がある。東京や松江にいる大阪外大の卒業生にも入会を希望する人がいたり、最近はメールなどで連絡を取り合えるようにもなってはいますが、やはりみんなで集まってする仕事が多いので、今も、上記の3条件を続けています。今後のことは時間をかけて考えます。

現在のメンバーは私も入れて10数人。公立図書館で働いている図書館員や、ロシア正教会で幼児洗礼を受けた正教徒、親子劇場、親子読書などの運動にかかわってきた人などいろいろですが、神戸外大や大阪外大で学んだ人が多いですね。最近入会した若い人たちの中には、院で勉強したり、モスクワやペテルブルグで専門家としての研修をしてきた人もいて、そういう若い人たちはコンピュータにも強く心強いかぎりです。

今までコンサルタントだった山崎タチアナさんが自ら希望して特別会員になったり、「カスチョール」誌創刊15周年(第24号)からチェコ専門の中目さんがJ.トルンカについてシリーズ記事を書いていることなどで、前途にまた新しい希望を見出しています。ロシア語のベテランも多いのに、時間を割いてロシア語の授業に通う人たちもいて、このオバアサン先生を喜ばせています。

Q6 ノルシュテインなど協力者がずいぶんいるようですが?

ええ、貧しいカスチョールにとって、これは何よりの宝です。Yu.ノルシュテイン夫妻や彼のスタジオの人々、チュコフスキーの孫娘であるエレーナさん、ペテルブルグ公衆図書館のラーズモフさん、ラチョフ夫人、画家のM.ミトゥーリチ、L.トクマコーフ、V.オリシヴァング、G.アレクサンドロワ、つまり私たちのガーリャ、S.オストロフ、マクシム(M.ミトロファーノフ)、故A.パホーモフの遺族、V.コナシェーヴィチの友人たち、V.ビアンキの娘と孫、画家V.ドゥビードフの未亡人、Yu.ワスネツォフの娘ふたり、N.チャルーシナとその夫、A.リンドグレーンやYu.オレーシャの「3人ふとっちょ」のイラストレーターであるM.ブイチコーフ、作家のS.コズロフ、M.マスクビナー、ほんとうにすばらしい友人たちです。

そうそう、いちばん大事な人を忘れていました。ペテルブルグ、マラート図書館の館長ミーラ・ワシューコワさん、私たち「カスチョール」のペテルブルグメンバーと言ってもいい協力者です。
それから、この15年の間に親しい友人だった人たちをずいぶんたくさん失ってしまいました。Yu.コヴァーリ、T.マ-ヴリナ、E.ラチョフ、V.ベーレストフ、V.ドゥビードフ、B.ザホデール、L.チュコフスカヤ等々です。モスクワにいた田中友子はこういった人たちの告別式に「カスチョールの会」の花束を持っていつも参列してくれました。私たちの活動を理解し、支えてくださったこういう人たちにはいくら感謝してもしたりません。体制転換にともない、市場原理主義的な考え方が広まる中で、私たちの友人は皆、損得勘定なしに私たちの仕事に協力してくださり、ほんとうに頭が下がる思いです。

Q7 雑誌の読者はどれくらいいるのですか?

どうしても寄贈が多くなってしまい…定期購読者は500人くらいでしょうか。賛助会員は80余名です。創刊号の印刷部数はわずか100部でしたが、今は1100部です。2006年1月に出した23号はもう30部ぐらいしか残部がないので、2006年12月に出した15周年記念号(24号)は印刷部数を増やしました。これからも少しずつ増やしていこうと思っています。

Q8 雑誌を制作する経費はどのように賄っているのですか?

定期購読者の会費と賛助会費以外は、主として、メンバーの会費で賄っています。それだけでは赤字になるので、私が講演する時などに、バックナンバーやカスチョール冊子を売ったりもします。本来「カスチョール」は研究誌ですから、この雑誌を必要とする方たちに読んでいただくため内容を充実するだけでいいのでしょうが、やはり出来るだけ多くの方たち、それも次世代の母親になる方達に読んでいただきたい。

するとカラーの口絵を入れたり、デザイナーの手をかりたりすることになりますが、自転車操業でまったく余裕のない私たちにはなかなか大変で、読者の方たちには申し訳ないのですが、今回やむなく誌代を800円から1000円に引き上げました。又思い切って広告も載せることにしました。少し見栄えのするものになったことで、京都の有力書店に雑誌を置いてもらえることになり、大助かりです。ひとりでも、ふたりでも、定期購読者や賛助会員が増えることを何より願っています。

Q9 姉妹誌の翻訳集「アグネブーシカ」はどのように生まれたのですか?

ロシアものはプロの出版社がなかなか出さないのです。出版されたものも絶版が多く、たとえば、私が非常勤で行っている大学などで学生たちに読んでもらおうと思っても、入手できません。短い作品を読み上げることはできますが、いつも時間不足ですから朗読も楽ではありません。痺れを切らして自分たちで翻訳集「アグネブーシカ」を出しました。

1号の「ボリス・ジトコーフ特集」は田中友子が「これはぜったい宮崎駿さんが好き」と太鼓判を押し、この間ジブリミュージアムから訪ねて来たAさんに「宮崎さんに渡してください」と託しました。「押し売り」ならぬ「押し読ませ」ですね。でも、宮崎さんはさっそく読んでくださり、「良い作品を読ませていただいた。少年倶楽部を読んで、世界のいろんなことに興味を持った自分たちのことを思い起こさせてくれた」とおっしゃったとか。

Q10 本の出版もされていますが、今後もそういう計画がありますか?

ええ、『わが父ショスタコーヴィチ』(音楽の友社)は頼まれて2ヶ月ほどで訳したのですが、人間ショスタコ-ヴィチがわかって面白いと非常に評判がいい作品です。子どもの目から見た父親ショスタコーヴィチ――そういう視点はまさに「カスチョール」のものだと考え、邦訳の依頼をお受けしました。「カスチョールツアー」の報告(第22号)でも触れていますが、ノルシュテインがこの本を愛読していて、私たちが訳したことを知らずに、スタジオで見せてくれました。

他にも「カスチョールの会」で編集した、偕成社の『きみにもできる国際交流』(ロシア編)はチェコ編とともに、「日本図書館協会選定図書」「全国学校図書館協議会・選定図書」「全国学校図書館協議会・基本図書」に選ばれました。大阪外国語大学に入学してくる学生などは殆ど読んでいますから、いい仕事だったと思っています。

カスチョール講演と名づけた講演会で、私の元同僚法橋和彦先生のトルストイ講演を3回開催しましたが、そのときのレジュメのつもりで作った冊子『トルストイの
おはなし

アーズブカ

』もなかなかの評判です。加藤周一さん、私の父の高杉一郎などがぜひハードカバーの大きな本にするように、と言ってくれているのですが、今はなかなかこういうものを出してくれるところはありません。